元中国人でありながら日本に帰化し、評論家として活躍してきた石平(せき へい)さん。
今回、日本維新の会から参院選へ再出馬したことが大きな話題となっています。
2007年に日本国籍を取得した石平さんは、日中関係や中国問題を中心に鋭い論評を展開してきました。
日本維新の会から参院選比例代表候補として出馬を表明したことで、「帰化人1世」の国政参加という新たな議論を呼び起こしています。
SNS上での中傷や一時的な出馬辞退を経て、再び立候補を決意した背景には、対中外交や移民政策など日本の将来を見据えた強い思いが込められているようです。
今回はそんな注目度の高い石平さんの学歴や経歴について、詳しくまとめていきたいと思います。
石平(せき へい)の学歴

(引用元:北京大学4年生「産経新聞」より)
石平さんの幼少期は、文化大革命の影響を強く受け、両親が知識人として地方の農村に送り出されたため、主に祖父のもとで育ちました。
この時期、石平さんは祖父から漢詩や論語など伝統的な中国文化の素養を学び、学問への興味を深めていくようになります。
小学校・中学校時代は、成都市内の公立校に通っていました。
特に学業成績は優秀で、地域でも有名な生徒さんだったようです。
その後、四川省成都市の名門校である「成都石室中学(せいとせきしつちゅうがく)」に進学しています。
成都石室中学(せいとせきしつちゅうがく)は中国四川省成都市に位置する高等学校である。
この学校は、漢代に創設された「文翁石室」を前身とし、中国でも最も伝統と実績のある省級一級モデル高校のひとつです。
石平さんが在学していた当時も、進学校として多くの優秀な生徒が集まっていたようです。
石室中学での高校時代、石平さんは社会の矛盾や理不尽さに直面しながらも、学問に打ち込み、優秀な成績を収めていました。
その結果、1980年には中国屈指の難関校である名門「北京大学(人文学部哲学系)」に合格し、進学しています。
北京大学では哲学を専攻し、在学中の1982年頃から民主化運動に関心を持つようになり、毛沢東時代の独裁的体制の再来を防ぐための活動に情熱を注ぐようになります。
1984年に同大学卒業後は、四川大学哲学部の講師を務めていました。
1988年には日本への留学を決意し来日。
日本語学校で日本語を学び、さらに「神戸大学大学院文化学研究科博士課程」を修了しています(※博士号取得の有無は不明)。
1989年の天安門事件を契機に中国共産党との精神的決別を果たし、日本文化に深い魅力を感じるようになったそうです。
このように、石平さんは小学校時代から伝統的な中国文化と厳しい社会環境のもとで学び、名門校である成都石室中学、北京大学、そして日本の神戸大学大学院へと進んでいきました。

とても堅実的で国際的な学歴を持った印象を受けますね!
【学歴まとめ表】
年代 | 学校 | 備考 |
---|---|---|
1968年頃~ | 小学校(四川省の農村部) | 祖父(漢方医)のもとで育つ。論語など中国古典を学ぶ |
1970年代前半 | 中学校(成都市内) | 社会の矛盾や理不尽さを目の当たりにする |
1970年代後半~ | 成都石室中学(高校) | 中国有数の伝統校。学業優秀で、哲学への関心を深める |
1980年9月~1984年7月 | 北京大学人文学部哲学系 | 中国屈指の名門大学。哲学を専攻し、民主化運動にも関心 |
1984年~ | 四川大学哲学部(講師) | 卒業後、大学講師として勤務 |
1988年~ | 日本語学校(日本) | 日本留学のため来日、日本語を学ぶ |
1995年 | 神戸大学大学院文化学研究科博士課程 | 修了(※博士号取得の記載なし) |
高校時代(まとめ)
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(引用元:「Linked in」より)
石平さんの高校時代は、中国四川省成都市にある伝統と格式を誇る「成都石室中学(せいとせきしつちゅうがく)」で過ごしました。
成都石室中学は、漢代に創設された「文翁石室」を前身とし、現在は「省級一級モデル高校」として中国国内でもトップクラスの進学校に位置付けられています。
この高校は、かつて「成都第四中学」とも呼ばれており、歴史的にも非常に由緒ある学校です。
石平さんが在学していた当時も、学業において優秀な生徒が多く集まり、厳しい学習環境の中で切磋琢磨していたようです。
石平さん自身は、文化大革命の影響が色濃く残る社会情勢の中で青春期を送っていました。
両親が知識人として地方から送り出されたため、農村部で祖父に育てられ、社会の矛盾や理不尽さを身近に感じることも多かったと言われています。



そんな環境下でも、石平さんは勉学に励み、優秀な成績を収めていたようですね。
高校時代の努力が実を結び、1980年には中国屈指の難関大学である北京大学に進学を果たしました。
石平さんの高校時代については、伝統ある進学校での学びが、彼の人格形成や知的好奇心に大きな影響を与えた時期だったと感じます。
家族の下放や社会の矛盾を目の当たりにしながらも、学問に真摯に向き合い、優秀な成績を収めて北京大学へ進学したことは、強い意志と努力の証だと私は思います。
大学時代(まとめ)


(引用元:「海外進学・留学ラボ」より)
石平さんの大学時代は、1980年に中国の名門・北京大学(人文学部哲学系)に入学したことから始まります。
当時の中国は改革開放政策が始まったばかりで、大学キャンパスには自由な空気が流れ、学生たちの間ではルソーやフランス革命、民主主義の思想が盛んに語られていたようです。
石平さん自身も「当時、ルソーを語らないやつはダメでした」と語るほど、哲学や西洋思想に熱中し、特に民主主義や国家の未来について友人たちと議論を重ねていたといいます。
在学中の1982年頃からは、毛沢東時代の暴政の再来を防ぐために民主化運動に情熱を傾けるようになりました。
この時期、石平さんは中国社会の矛盾や理不尽さを強く意識し、自由や人権、民主主義の重要性を体感するようになります。
学内外で民主化運動に積極的に関わり、同世代の学生たちとともに中国の未来について真剣に考えていたようですね!
こうして、石平さんの大学時代は、自由な学問環境の中で哲学や民主主義思想を深く学び、民主化運動に身を投じた知的かつ情熱的な青春時代でした。



学びへの貪欲さと行動力はズバ抜けていた感じですね
大学在学中から中国社会の矛盾や理不尽さを強く意識し、民主化運動に情熱を傾けていた点は、彼の「好奇心」と「社会正義」への関心の高さを物語っているように感じました。
大学時代は、石平さんにとって単なる学びの場ではなく、自分自身や社会の在り方を問い直す特別な時間だったのではないかと私は思います。
石平(せき へい)の経歴


(引用元:36年前の石平氏「X」より)
1984年に北京大学哲学系を卒業した後は、四川大学で哲学の講師を務めています。
この時、民主化運動にも関心を持ち始め、社会の矛盾や理不尽さを強く意識するようになります。
しかし、学生への民主化運動の働きかけが問題視され、やがて新天地を求めて日本への留学を決意することに。
1988年に留学のため日本へ来日し、日本語学校で日本語を学んでいました。
1995年には神戸大学大学院文化学研究科博士課程を修了しています。(※博士号取得の有無は不明)
民間研究機関での勤務を経て、2002年に『なぜ中国人は日本人を憎むのか』を出版し、評論家としてデビューを果たしました。
中国の反日感情や日中関係を中心に鋭い警告や分析を発信し続けています。
2007年11月には日本国籍に帰化し、2008年からは拓殖大学日本文化研究所の客員教授も務めました。
2009年からは産経新聞で「石平のChina Watch」コラムを連載するなど、執筆・講演・テレビ出演など幅広い言論活動を展開しています。
そして2025年、日本維新の会から参議院選挙比例区候補として出馬を表明し、話題となりました。



帰化人としての国政挑戦が大きな話題となっていますね!
石平さんは、日中関係や中国社会の問題点、民主主義の意義、日本社会の価値観などについて、独自の視点で考えを発信し続けています。
石平さんの経歴を振り返ると、自らの信念を貫き、探究心と行動力を持って人生を切り拓いてきた人物だと強く感じます。
また、石平さんは中国と日本という二つの社会を深く知る立場から、日中関係や中国社会の問題点を鋭く指摘し続けてきました。
その発言は時には賛否両論を呼んでいますが、自らの体験に根ざしたリアリティと説得力がある点が、多くの人に影響を与えている理由だと感じています。
【経歴まとめ表】
年代 | 経歴 | 備考 |
---|---|---|
1962年1月30日 | 中国四川省成都市に生まれる | 両親は大学教師、文化大革命で農村へ下放される |
1980年9月~1984年7月 | 北京大学人文学部哲学系 | 哲学を学び、民主化運動に関心 |
1984年~1988年 | 四川大学哲学部 講師 | 大学で哲学を教える |
1988年 | 日本へ留学、日本語学校で日本語を学ぶ | 天安門事件を機に中国共産党と決別 |
1995年 | 神戸大学大学院文化学研究科博士課程 修了 | 博士号取得の記載はなし |
1995年~ | 民間研究機関に勤務 | 日本での社会経験を積む |
2002年 | 評論家デビュー | 『なぜ中国人は日本人を憎むのか』出版 |
2007年11月 | 日本国籍に帰化 | 帰化後の本名は北埜陽 |
2008年~ | 拓殖大学客員教授 | 教育・研究活動 |
2014年 | 第23回山本七平賞受賞 | 『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』 |
2025年 | 日本維新の会から参院選比例代表候補として出馬表明 | 帰化人1世の国政挑戦が話題 |
石平(せき へい)は帰化人として話題
石平さんが「帰化人として話題」となっている背景には、中国出身で日本に帰化した人物が国政選挙に挑戦すること自体が、現代日本社会で大きな注目と議論を呼んでいるためです。
彼は中国・四川省出身で、2007年に日本国籍を取得(帰化)した評論家です。
2025年の参議院選挙で日本維新の会の比例代表候補として出馬を表明しましたが、ネット上で「帰化人1世の国政参加」への疑問や誹謗中傷が相次ぎ、家族の動揺もあって一度出馬を断念しました。
その際、石平さん本人も「帰化人1世が国政に出るのは良いのか」という社会的な課題を真剣に考える意向を示していました。
しかし約3カ月後、石平さんは「日本維新の会から再び公認を受けた」として、再度出馬を決意。
政策として「対中外交の見直し」「帰化制度の厳格化」「大量移民阻止」などを掲げ、「帰化人としての自分が日本の国益のために何ができるか」を訴えています。
この動きは、帰化人が国政に参加することの是非や、日本社会の多様性、国籍と政治参加の関係といったテーマについて、幅広い議論を呼び起こしています。
石平さん本人も「健全な批判や危惧の声が多く寄せられている」と認めつつ、社会的な問題提起を行いながら、あえて再出馬を選択したことが話題となっています。



3ヶ月の期間を置いていることから、いろんな葛藤を経ての再出馬だったんでしょうね。
石平さんが「帰化人」として注目されていることについて、現代の多様性や国籍、アイデンティティの問題を考えるうえで非常に象徴的な事例だと感じています。
今後の展開に注目ですね!
石平(せき へい)のプロフィール


(引用元:「私のカクゴ」より)
氏名: 石平(せき へい)
生年月日: 1962年1月30日(63歳)
出身地: 中華人民共和国四川省成都市
職業: 国際問題評論家、作家
国籍: 日本(2007年11月に帰化)
趣味:写真撮影 登山 旅行 美術鑑賞
座右の銘:徳不孤、必有鄰
まとめ
石平さんは、中国のエリート教育を受けながらも天安門事件をきっかけに祖国と決別し、日本に帰化した異色の経歴を持つ評論家です。
20年以上にわたる評論活動を経て、今回政治の世界に挑戦することとなりました。
中国出身の帰化人として初めて国政選挙に立候補する可能性があり、その動向は今後も注目を集めることでしょう。
今回、石平さんのケースは「帰化人」の政治参加をめぐる日本社会の現状と課題、そして今後の社会のあり方について深く考えさせられるものだと強く感じました。
石平さんがどのような政治活動を展開するのか、今後の参議院選挙の結果や活動に注目です。